あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

マホラ02 コトバのモンダイ

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ウィトゲンシュタインの言及は舌足らずであった。「人の操れる語彙の限界が、その人の世界の限界である」のではない。
「文章による概念の経験知識の限界が、その人の世界観の限界である」。
日々の生活に根ざした概念世界は単語による意味世界では表現できない。一つの単語で示される概念世界は、動きのない死の世界であり、経験に基づく概念世界は、文章で表現される。

📝「自己言及」のパラドックスという論理学上の難問がある。
例えば、
「この文章は誤りである」とか、
「私は嘘つきである」など、陳述文自体が、意味として矛盾している文である。いろんなバリエーションが無数に作れる。
こういう論理的に成立し得ない文章を強引に例示して、文法理論を構築しようとする学者がいる。
言語学における文法生成仮説を前提付ける反面論拠である。
しかし、文法的に正しくて内容の無意味な文章が無数に作れることをもって、文法能が人間の頭脳に生得的に備わっているとする証拠にはならない。
見方を変えれば、問題はすぐに解決する。栓ずるところ「自己言及のパラドックス」は、意味論における誤法なのである。
というのは、これは「自己矛盾」の陳述というべき文表現の錯誤例だからである。厳密に言うと、未完成文なのである。
戯曲台本では稀であるが、小説では「…と言った」や「…と思った」など、話者の発言行為を描写する文節が必ず書き込まれる。複文表現になるのである。
同様に、我々が口頭で発言したり、文章で意見を述べたりするとき、普段は意識していないが、すべての文に「…と(私は)考える」という文言を付け加えているのである。
会話や議論演説の際には、しばしば「…と思います」と発言する。日常の言語活動においては、そのような付言を無意識に行なうが、文章表現(発言)を厳密にするならば、全ての陳述においてそうするのが正しい形式である。つまり、作文をしている者の意識内においては「…と思う」と付言しているが、習慣として省略している(のだと思う)。
人によっては、「(以下のように)こう思います…」とか「次のように聞きました…」と付け加える例もある。
しかし、我々は日常において、それを省略していることすら意識していない。あまりにも分かりきったことであるので、そうであることに氣付きもしないのである。
そこで、「自己言及のパラドックス」に、この原則を当てはめるとどうなるか? もうお分かりだろう。自己言及の「パラドックス」など成立しないのである。
「私は『私は嘘つきである』という」と陳述する「私」は作文を間違えただけなのである。あるいは、そう言って発言をはぐらかしたいだけなのである。
同様に、創世記にある「神は『光あれ』と言った」の文章にも、この陳述文を書いた者の「…と私は聞いたと思う」と付言されるのである。これが、文法的に正しい「自己言及」である。

我々がコトバを発するとき、目の前に聞き手がいてもいなくても、発言内容は主観でしかない。科学的で客観的あるいは論理的な内容の文を発しても、陳述の形式は常に主観表現である。
デカルトの「コギト、エル、スム」もまた、主観陳述でしかなかったのである。
「『我思う』と我思う。『ゆえに、我あり』と我思う。」でなければならない。

古代では、
人称代名詞なしの文が一般的であった。神話。歴史。
幼年期、幼児の喋り始めは一人称代名詞(僕、私)を使わない、主客未分化の言語意識の世界である。
文法的には、未完成か誤用の文章を、日常的に発していた。