あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

E46/ 英会話:日本人のザンネンな言語環境:連載

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街角で見かけた看板。アルファベットでカッコ良くしたつもりが、フランス語と英語のゴッチャになってますがな。
オモロイじゃな~い?

○英語に限らず、
言語一般についての日本人特有の誤解を、山本センセも背負いこんでおられます。
それは、とりもなおさず、
世界で唯一!
漢字カナ混じりの表記法をとる日本語で、言語活動の大半をまかなっているガラパゴス的宿命が、
そうさせるのでありますが。

○ 国公立の大学を卒業したような、かなり高い教養を身につけた知識人でも、
言語学の初歩的知見に触れることがなければ、
(日本語以外の)一般言語を修得するメカニズムについて誤った考えをもってしまいます。山本センセのように……。
挙げ句に、「美しい日本語」などという本まで出てきます。
○世界で唯一「漢字カナ混じりの表記法 」をとる日本語のガラパゴス的孤立と、ユニークかつ不必要な複雑面妖さ。

○19世紀末にウブゴエをあげた言語学は、21世紀にさしかかったときに、ある程度のアウトラインが定まりつつある若い科学であります。
それゆえ、N・チョムスキーの普遍文法仮説はもとより、ソシュールすら大学での一般教養の科目にはいっていません。
なので、今40代50代の大学の教授でさえ(自己のかかわる専門分野にかかわらず)言語学の重要性に氣づいているカタが非常に少ないのです。
心理学や文学はいうにおよばず、
あらゆる学問科学の大前提として言語学がなければならないのに、
それに氣づいている日本の学者はほとんどいないありさまです。
言語学の基本も知らず、日本語表記の障害を意識せず「漢字カナ混じり文」で論文を書いているのです。

さて、17章
「英会話対英会話学習」
であります。この章も、逆のイミで重要です。
小見出し風に、太ゴチックで強調なさるのは、山本センセいつものスタイル。
いわく、
①「英会話と英会話学習とを切り離すことが大切です。」
②「新しい表現を学び、それを自分のものにするには英語のみで学ぼうとしても効率が悪い場合が多いのです。」
③「英会話をしながら、または英会話を通して英会話学習をするということは、それ自体に無理・矛盾を含んでいるのです。」
④「聴くことと話すことは別個である!」
⑤「英会話ならず"英聞話"をしているという状況にほとんど気がついていないというのが、大半の英会話学習者たちの真の姿です。」
イロイロ、ごたごたと書いておられますが、
一見モットモらしいイイグサではあります。
しかし、たとえば②の文章のあとで、
「英語は英語を通して学ぶのがベストでかつ唯一の方法である、というような考えが浸透していて、その不適切さを指摘する声はあまり聞いたことがありません。」
と、おっしゃる。
○これは、100年の歴史を誇る " Direct Method " をご存じないセンセの、プロとしてはかなりハズかしい一節であります。もう、この文章だけでも、語学・英会話の専門家でないコトを証明したようなモノです。
たしかに、戦後日本の英語教育では、ダイレクト・メソッドは旨くゆきませんでした。
その原因は、再三のべておりますように、
漢字カナ混じり表記の日本語アタマが、学習する側の障害となっているのですから、このコトに氣づかぬまま、
LL装置の教室に生徒をとじこめても、パターン・プラクティスをくりかえさせても、ラチはあかなかったワケです。
○なによりも、ダイレクト・メソッドでは、身振り手振りのアクションをともなった実際的場面での観察学習が基本ですから、指導者はネイティブでなければならないのです。
もちろん、翻訳家志望だった若き山本青年にとっては、ダイレクト・メソッドは全くのナンセンスだったのでしょう。
こと、英語能や英会話についてその修得法を論じるとき、
「英語は英語を通して学ぶのがベストでかつ唯一の方法である、というような考えが浸透していて、その不適切さを指摘する声はあまり聞いたことがありません。」などとは、口が裂けても言ってはなりません。

○つづいて、⑤の
「英会話ならず"英聞話"をしているという状況にほとんど気がついていないというのが、大半の英会話学習者たちの真の姿です。」のあと、
p.90、「さらに、英語教育のセールス文句が、この弱点につけこみます。
「『聴けない英語は話せない』などと ー 。
「これは一見正しい指摘のように聴こえます。Wait a second! ほんとうに的を射た指摘でしょうか? これをひっくり返して考えてみてください。じゃ、『聴ける英語は話せるのか?』事実はそうではありません!聴いて理解できる英語を口で完全にリピート、あるいは再生できるのは4~5ワードからなる非常に短いフレーズまたはセンテンスだけです。実際によく使う8~12ワード、もしくはそれ以上のセンテンスになると、意味は理解できても、それを忠実に再現することはほとんどができないというのが実情です。
(ここから、太ゴチックになって、)
「つまり、逆が真実なのです! 逆が本当の姿だと思った方が実力が向上します。『話せる英語は聴ける!』と概念を転換してください!」
と、まあ、シリメツレツなコトバあそびを羅列なさいます。
○「聴けない英語は話せない」をひっくり返して、
「じゃ、『聴ける英語は話せるのか?』事実はそうではありません」とナンクセをつけておられますが、いきおいあまって、筆がすべりました。大チョンボの直滑降、おおスベリもイイトコであります。
「つまり、逆が真実なのです!------『話せる英語は聴ける!』と概念を転換してください!」
「逆」好きの山本センセですが、センセが
「聴けない英語は話せない」という惹句をひっくり返して
「聴ける英語は話せるのか?」とナンクセつけるそのやり口を、そっくりそのままセンセの御説
「話せる英語は聴ける」にあてはめてみますと、
(ウラにひっくり返して…)
「話せない英語は聴けない」となります。
○これって、センセがケチつけていた、
「聴けない英語は話せない」とオモテウラの意味じゃありませんか?
確認!
☆山本説
「話せる英語は聴ける」⇒
☆ひっくり返し(ウラ)
「話せない英語は聴けない」⇒
☆そのまたひっくり返し(オモテ)
「聴けない英語は話せない」
めでたく元のモクアミになりました。
こんなコトバ遊びに、何の利益があるのでしょうか?その徒労感が、むなしい。今日この頃でございます。