あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

コトバにダマされるアナタ!

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信ずるものは、アシをすくはれる。
信仰の有無や、自明の理は常日頃言及されません。
公共の場での警告表示は、その「行動規範」が守られてゐないことを暗示してゐます。
駅のホームや車両内に
「お年寄りやからだの不自由な人に席をおゆずり願ひます。」
掲示されてゐるのは、席をゆずらない者がケツコウ多いからであります。

人間の(みづからつくつた)行動規範は、常日頃よく破られるのです。
法律全般がさうです。
罰則規定のない条例はもとより、懲役罰金死刑の処罰規定がある法律であつても、違反者は陸続とわいてきますな。
いつの時代でも、どんな民族にでも、
コトバによる戒律・法律があり、それを破る者が必ずゐるものです。

宗教の戒律もまた同じく、常々やぶられます。

神への信仰なしに、神は存在しません。
それゆゑ、神の存在根拠は、信者の信仰にありますから、
人間の信仰をはなれて、客観的に神が存在するコトはありません。

いかなる宗教も、信仰するもの・信者がいなければ、存在しません。
そして、
宗教的戒律は、その信仰のもとにつくりだされたものにすぎません。

宗教は、「神」「霊」「あの世」「タマシヒ」などの超自然の存在を想定して、
それがあたかも実在するかのやうに信じながら、
これにすがりつくコトであります。
もとより、その「超自然」なるものは、この世には実在しませんので、
コトバだけの概念であります。
ですが、信者は、それらのことが実在すると、信じてをります。
この、信者の信仰内容(観念)は、リチャード・ドーキンスもいふとほり、
客観的には「妄想」とよびますが、教団ガハは、
モチロン そんなことはオクビにもだしません。
コトバだけの存在で、実在しないモノが唯一の商品(ウリモノ)でありますから、
宗教家・教団にとつては、
「コトバ」ほど大事なモノはありません。

ところが、
信仰は、コトバだけのものですから、
当然、
教典に書かれた戒律・教へを厳格にまもる信者など、ほとんどゐません。
宣教師牧師すら、破戒をくりかえしてをります。

旧約聖書には、エホバの教へを破りまくる歴史が、
これでもかコレデモカと書きつらねてあります。
新約聖書以降においては、
世俗の罪をおかす教会関係者(法王、司祭、宣教師、牧師)の罪業が、
歴史のエピソードとして、これまた、たくさん記録されてをります。
それでも皆さん、だれ一人として、
死後「地獄に堕ちた」との本人からの報告がありませんので、
きつと、自分の信じた天国とやらで、
楽しく過ごしてゐらつしやるのでせう。

おめでたうございます!