あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

MR-001. 日本語がほろびないためにも、Roma ジ ヒヨウキ が いそがれます。

イメージ 1


7年も前の書評です。
これから、
調べて参ります 御本『日本語が亡びるとき』について、
世間には、
私とは かなりちがつた かんがへを
もつてゐらつしやる方が おほぜいをられる、その実例。

書き込みのコメントをふくめて
全文をコピペいたします。
ここから以下、その「書評」とthreadの一部。


今世紀最重要の一冊
- 書評 - 日本語が亡びるとき
2008/11/09/ 05:00
まずは本書の存在を教えてくれた、梅田望夫に感謝したい。おかげでAmazonが在庫を切らす前に注文することが出来た。



日本語が亡びるとき水村美苗


弾言かつ断言する。

日本語で何かを成しているものにとって、本書をひも解くことは納税に匹敵する義務である、と。

本書「日本語が亡びるとき」は、今世紀においてこれまで書かれた中で、最重要の一冊(誤読が多かったので、少し表現を具体的にしてみた。確かに元の「今世紀」だけでは今後書かれる本も含まれてしまう)。

ノンフィクションの本を紹介する際、ふだん私はここに目次を入れているのは本blogの読者であればご存知かと思う。しかしこと本書に限っては、それは、入れない。隅から隅まで、頭から順番に最後まで読まれなければならないのが本書である。一本道に道案内はいらない。

本書を読了して、私はやっと理解できた。

梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが。

そして、なぜ私が一年半もの間、原稿書き以外の有償の仕事を全く放棄し、Perl 5.8の開発に没頭していたのかが。

日本語に、危機が迫っている。しかしそれは、ジジババが言う「近頃の若い者たちときたら、ろくに言葉も使えない」みたいな。

日本語の「変質」のことではない。変質ならばよいのである。それはむしろ健全さの証とすら言えるのだから。今日のあなたが昨日のあなたでないように、今日の日本語は昨日の日本語ではない。おもかげを 残したままで うつろい行く うつろうのは、言葉が生きている証である。

ちがうのである。著者の危機感の正体は。そして私の焦燥感の正体は。日本語そのものの存在が、危機に瀕しているのである。私自身、おりにつけ主張をしてきた。

一方小飼氏はプログラミング言語ではなく、日本語に対して危機感を抱いているとコメント。「現在は日本語で高等教育を受けられ、またコンピュータサイエンスも日本語で勉強できるが、日本語が弱くなるとこれらが英語に置き換えられてしまう可能性がある。たとえば、20年後は英語を知らないとRubyを勉強できないということも起こりうる」と指摘。
しかし、文化的教養に欠ける私は、「文明的」にそれを主張することができるが、著者のようにそれを文化的に主張することが出来ない。そして、「日本語を護る」というのは、文明ではなく文化を護ることなのだ。

P. 266
日本語が「亡びる」運命を避けるために何をすべきか。
何か少しでもできることはあるのか。
著者の主張とはだいぶ異なるが、私がこれまでに、あのえもしれぬ衝動に突き動かされてやってきたことは、「日本語の延命策」であった。今日のインターネットは、著者も主張するように英語で構築されている。しかし器としてのインターネットが英語で出来ていようとも、そこに載せるべき内容(content)は、英語である必要もなく実際そうではない。日本語もきちんと「乗せることが」できる。

今では当たり前のことではあるが、それは放置の結果ではない。それは数多くの人が「英語しか載せられない器などごめん被る」と、英語以外の言語も載せられるように、英語で尽力してきた結果なのである。そしてその尽力のごくわずかではあるが、しかし無視し得ない一部を私は担ったのだ。私はこれを誇りに思う。

しかし、漢字かな変換からUnicodeまで、これらの努力は延命策とはなりえても日本語の将来を来世紀にもわたって安堵するものとはなりえない。なぜそうなのか。本書でしっかり確認していただきたいが、こここでは私がどういってきたのかを改めて紹介させていただく。

そんなわけで、この「日本という方法」はこの島国でねんごろに育まれてきたが、今、この方法は未曾有の危機に直面している。それも一つでなく二つも。世界のフラット化と少子高齢化だ。

前者は言うまでもないだろう。コンテナ船に747にインターネット。島だった日本に架かる橋がこれほど多かった時代はなく、そして今後もこの橋は増え続ける。鉄砲を真似されたポルトガル商人は悔しがるしかなかっただろうが、ディズニーは著作権で守られている。これが、「おもかげ」の危機。
そして、少子高齢化。日本がこれまでうつろい行くことが出来たのは、うつろう人々がいたからだ。そしてそれはほぼすべての場合、それは現状に満足できぬ若い人々だった。知恵と経験では劣っても、数と熱意に勝る彼らが、日本をうつろわせてきた。今、このサイクルが停滞し、ものによっては逆転しつつある。これはまさに日本が「日本」を自覚して以来の危機ではないだろうか。人口は確かに今までも増減してきたが、これほど「頭でっかち」になったことはかつてなかったのだ。「うつろい」もまた危機に瀕している。
著者は言う。

P. 313
日本語も、「絶対、大丈夫」ではない。
逆になぜ今まで大丈夫だったかを考えれば、なぜ今は「絶対、大丈夫」ではないかは明白である。日本語は、島国であるという「距離」と1億3000万(日本の人口よりわずかに多いのは、わずかではあるが日本人でない話者もいるから)、世界の50人に一人、それも最も経済的に豊かな方の一人が話し手であるという「質量」によって「自然」に護られてきた。なぜ日本語が「ねんごろに扱われなかった」かといえば、そうする必要がなかったからである--今までは。

しかし、前述のとおり、この二つの「堀」は、急速に埋まりつつある。すでに「距離」という外堀は埋まっている。そして今世紀いっぱいかけて、「質量」という内堀も埋まってしまうのだ。

この両方が埋まった時、日本語を護るものは、もはや何もない。

それでは、一体どうしたらいいか。

いや、それを問う前に、日本語は護るに値するものなのか。

仮に日本語が亡びても、日本人が亡びなければそれはそれでいいのではないか。たとえ自分たちの子孫が自分たちとは違う言葉を話していても、息災であればそれでよいのではないか。

という意見もありうる。しかし私は、日本語を護ることはその話者を護るに留まらないと信じている。日本語を護るのは世界のためなのだ。

なぜか。

それはentryを改めて語るとしよう。いや、語り続けていくことにしよう。

今、再確認しておきたいのは、以下の二点である。

一つ。今何もしなければ、来世紀には日本語は本当に滅びうる、ということ。

二つ。日本語を遺すということは、現代の日本人に対するにとどまらない、将来の世界に対する我々の責任であるということ。

この点において、私は著者と危機感をともにする。

ただし、「どうやったら来世紀も日本語を遺せるのか」という点に関しては、著者と意見を異とする。Jcodeを経てEncodeを出した経験が、それを裏打ちしている。

日本語を護る最良の方法は、何か。

日本語以外の言語、すなわち英語以外の言語も共に護る、という方法である。

なぜ私がJcodeでは満足できなかったかといえば、「日本語だけ護る」のでは日本語を護り切れなかったからだ。だから、英語が第一言語であった故 Nick Ing-Simmons から Encode を「引き取った」。プログラマーとしては数段劣る私がそれに踏み切ったのは、彼より強い危機感を持っていたからに他ならない。そして Encode を引き取るということは、日本語のみならず、英語以外の言語を全て引き取ることだった。

そして Perl 5.8 が Release された。私はここでやっと枕を高くして眠れるようになったのだ。

しかし、本書はそんな私を再び叩き起こしてくれた。読んで薦める以上のコミットメントを、私は本書に対してしていきたい。

まず、本書は英訳されねばならない。皮肉かもしれないが、それが著者の願いを成就させる最短距離である。そのために、私も出来ることをしたい。残念ながら私の英語力は本書を訳出するにはあまりに不十分であり、それ以前に日本語、そして文学の教養が足りなさ過ぎる。が、たとえば訳者を資金面等で援助することは可能だろう。

本気、です。 しかしそれはまだ少し先の話。

まずは、本書を一読して欲しい。危機感を共有して欲しい。

日本語であれ何語であれ、一人でそれを護ることなどかなわないのだから。

Dan the Nullingual


どうかその前に人類と地球が滅びませんように。
2008年11月09日 05:25
デンマークは人口500万人程度で、いまだにデンマーク語が公用語母語として使われていますが、オフィスでは英語という会社が少なくありませんし、生活の場面でも英語が使える頻度はかなり高いです。
Posted by eaks at 2008年11月09日 20:38
日本語がなくなると、日本語にしか無い概念も一緒に希薄化(無くなりはしないと思う)するのだろうか。

これは他の言語についても言えますね。

それを守りたいのかなと、思いましたが、ちょっと違うような気もします。
Posted by ふむふむ at 2008年11月09日 19:58
ブログが死んで、今度は、日本語が滅びるのか、病気と違うか?
さっさと、アメリカ国内に、日本語コミュニティーを作ってだな、そこで、原理主義でっつうの。
そもそも、もう、日本人じゃなくなった人たちが、なんで日本語にこだわるのか、だいたい、英語人から相手にされていなくて、しょうがないのと違うのでは?
そもそも、汚い日本語を書き散らしているだけにしか、思えん。
ただの、迷惑なパラノイアだと思う。

これで、マジに、文部省が本気になって、政治的に日本語に介入しだしたら、恐ろしすぎる。
日本の教育での英語がめちゃくちゃな上に、日本語もめちゃくちゃになって、
そういう未来に予定調和させようとしているようにしか思えない。

あほらしい。

紹介された本が、どこまで、広がるかを待っても、十分そう。
プロパガンダで売れてしまうのが、異常だな。以上。
Posted by 牛 at 2008年11月09日 18:23
本を読むまでもなく、このブログの最初の数行を読んで本当に日本語に危機が訪れている事が実感出来ました。
意味不明だったので。
ありがとうございました。

> 本書「日本語が亡びるとき」は、今世紀においてこれまで書かれた中で、最重要の一冊(誤読が多かったので、少し表現を具体的にしてみた。確かに元の「今世紀」だけでは今後書かれる本も含まれてしまう)。

> ノンフィクションの本を紹介する際、ふだん私はここに目次を入れているのは本blogの読者であればご存知かと思う。しかしこと本書に限っては、それは、入れない。隅から隅まで、頭から順番に最後まで読まれなければならないのが本書である。一本道に道案内はいらない。

> 本書を読了して、私はやっと理解できた。

> 梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが。

> そして、なぜ私が一年半もの間、原稿書き以外の有償の仕事を全く放棄し、Perl 5.8の開発に没頭していたのかが。

> 日本語に、危機が迫っている。

> しかしそれは、ジジババが言う「近頃の若い者たちときたら、ろくに言葉も使えない」

> みたいな。
Posted by sss at 2008年11月09日 18:25
何を持って「滅ぶ」とするか
それが「滅び」の定義ならば、現在滅びていない言語は英語と日本語くらいになってしまう気もしますね。
2008年11月09日 05:30
滋岳
s/おりにつけ主張/おりにふれ主張/
s/あのえもしれぬ/あのえも言われぬ/
s/こここでは私がどういってきたのか/ここでは私がどういってきたのか/
2008年11月09日 05:40
dankogai



以上


ここから
以下、鈴江の記述。


日本が 欧米の文物を受け入れるのに、漢字をもつて翻訳語をあみだし、
移入することができたのは、明治維新の頃には、有利でありました。
一方、中国本土の清朝にあつては、伝統の中華思想が災いして、
ヨーロツパの文物を、翻訳を通じて移入することをしませんでした。
翻訳語をつくりだすこともなかつたのです。

同時に、日本語には片仮名ひら仮名といふ「半・音標文字」があつたため、
歐州のコトバを、にかよつた片仮名文字で
無理矢理うつすことができた とおもふ経緯がありました。
片仮名語として うまく移入できたと、おもいこんだのであります。
日本人が、いまだに 英語の片仮名発音から脱却できない理由が、ここにあります。
中国語には漢字(といふ表語文字)しかないので、
中国での英語の発音については、アルフアベツトそのものをよむか、
音声教材から、耳うつしで聴き取り発音するしかありません。
他方、
韓国では、表音文字のハングルがあるため、英語の発音にあたつては、
(日本人の片仮名発音とおなじやうに)韓国語発音にひきよせてなまります。
ただ、ハングルは 子音母音の區別があるため、
片仮名から離れられない日本語人より、発音の体系構造を理解しやすい。
特に、単語語尾の子音発音については、
日本語人のやうに、余計な母音をくつつけることがありません。
片仮名といふ中途半端な表音文字になじんでゐる日本語人は、この点で、
世界でもつともや厄介な障害をかかへこんでゐるのであります。

コトバはオト(こゑ)でありますから、子音母音の區別ができない仮名文字は、
表音文字としては 欠陥文字なのであります。
言語を表記する文字としては、漢字と大同小異の変則文字なのであります。

そして、「漢字仮名まじり文」における「音読み訓読み」のベラボウ変則。
言語表記(発音記号)である文字は
コトバの発音をより正確にうつしとれてゐるのが 望ましい。
英語はこの点で、19世紀から、問題のある綴り字体系であると 論じられてをり、
いまだに、正書法が確立されてゐません。

先にコピペ致しました、弾氏の書評本
水村美苗・著『日本語が亡びるとき』 は、弾氏風にまうさば、
ーーー「今世紀最悪のトンデモ本!」
でせう。
前に、批判をくはえてまいりました『英会話の正体』よろしく
次回より、各章を つまびらかに論じてまいります。さうして、
英語能修得が、カラツキシ ダメな 日本語人の、
その根源ユエンを といてまいります。