あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

E122/日本語やめて English(英会話) / A Little Language Goes a Long Way


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トンデモ本[施 光恒・著『英語化は愚民化』ーーー日本の国力が地に落ちる]
に よせて。
大日本帝国空軍省校閲局校正(12月30日皇紀2675年)

先々週から、おもしろい本を読んでゐる。12月26日、読了。

施 光恒・著
「『英語化は愚民化』ーーー日本の国力が地に落ちる」
といふ、抽象的議論のバケモノでござる。

◇  個別具体的事例にふれず、最近の日本の言語政策と
現状の英語公用語化企業や英語産業がもたらすであらう近未来に
あらぬ心配をいたす。
危惧・懸念・杞憂の熱をふいてをられる。

◇  後半203頁に津田幸男『英語支配とことばの平等』から引用して、
英語支配の序列構造なるものを披露なさつてます。

英語圏の諸国を
「特権表現階級」

英米旧宗主国とする、
英語が公用語であるインド、ケニヤ、フイリピンなどの
中流表現階級」
以上の2階級で10億人。

その下に、
英語を外国語としてつかふ おほくの国々の
「労働者表現階級」と
北朝鮮のやうな
「沈黙階級」、しめて50億人。

◇  カール・マルクスの「永久革命理論」をなつかしく存ずる。
さしづめ、現下の日本の英語状況は
ルンペン・プロレタリアトのクラスなのですね。
といふのも、
施センセ~は、日本を、上記  3番「労働者表現階級」に
いれてゐるやうに みうけられますが、
国際会議での日本代表団は、
ながいあひだ 3S(サイレンス、スマイル、スリープ)と
揶揄されて をつたので、
実際は、一番下の「沈黙階級」に序列されるべきなのでせう。お

この学説をふまへて、以下のやうなクダリもあります。 
〔原文・新カナ遣ひのママ〕
「繰り返すが、政府や財界が官民挙げて取り組んでいる日本社会の英語化とは、
日本社会の良さやアイデンティティの大部分を放棄し、
英語による世界の階層化を加速させ、
日本を三番目の序列に位置づけるものだと いはざるを得ない。」(p.206)

◇  なんとも、いさましいイヒグサであります。
全ページの各文をあげつらひ  揶揄するのもホネゆゑ、
とりあへず。
その  おもなる批判点を あげてみん。


○日本文化の位置づけ、定義が不明。
    「日本社会の良さやアイデンティティの大部分」とおつしやる
その日本文化を体現する典型人として、いつごろのだれを想定してゐるか?
    2010年の日本の文化状況の、御自分がお気に入りの「一部分」を
まもらうとしてゐるのか?
    1850年ごろの京都の商家の行動規範とコトバづかひなのか?
    1944年の陸軍参謀本部将官の無責任精神なのか?

○文字の普及の様態を、世界史次元で考慮してゐない。歴史のうへで、
   識字率をあげる初等教育の普及度と効果を まつたく無視してゐる。
   日本語の「漢字仮名まじり文」を  ルビなしで
ちやんと読めるものが、何人ゐるか?

○敗戦後のアメリカによる(現在までつづく)
    占領政策についてふれない。国家の独立は政治問題で、
「文化」なんぞといふ  抽象的形而上学的課題に、
言語政策論をもちだしても、徒労におはらう。
オカドチガヒもはなはだしく、現実問題としては、
この御本は、なんの影響もなし。メデタシめでたし。

○日本語とやまとコトバをごつちやにしてゐる。
    日本語の「漢字仮名まじり文」表記の問題にふれず、
日本語(表記法)を賞賛するだけ。
    視覚障害者を無視してゐるのは、中国と日本だけ。 
    ここのところをふくめて、
    人間のコミユニケーシオンの道具としてのコトバを
表記法のレベルで 不能化してゐる「漢字仮名まじり文」表記の
日本語は、コトバの記録(表記)法としては、
完膚なきまでに 愚劣である。
二重言語国家」などと シヤレてゐる場合ではない。

○日本人の英語(外国語)に対する感受性(コンプレツクスと不感症)を
問題にしてゐない。
    つまり、心配するほど、英語堪能者(バイリンガル)はふえない。
    ほとんど、現状のままであらう。
    一方で、
    日本語の「漢字仮名まじり」表記の弊害を しらうともしない。

中等教育から「オール・イングリツシユの授業をすると、
    日本語がうしなはれてしまふ」などと極端な心配をする。
    学生の家庭では、「現地語」としての日本語で生活するし、
    現代国語や古文の授業では日本語をつかふので、
    単に、日英バイリンガルの生徒が でてくるだけのことである。
    それより問題なのは、日本語だけの教育をほどこしてゐた  これまでの
生徒学生に、日本語すらおぼつかぬ  おちこぼれがゴマンとゐる事実である。
  そちらの方を、もつと深刻に危惧すべきであらう。

ラテン語とヨーロツパ諸語の関係を、
    「普遍語」と「現地語」にわける、といふ間違ひをおかして、
    現在の英語を、帝国主義の「普遍語」として位置づける。
    エスペランチストと同様の感覚。
    南ヨーロツパの諸語は、俗ラテン語から方言化したもので、
    英語と日本語とのあひだのやうな断絶はなかつた。のでありんす。

○日本国内でも、英語圏諸国でも、権力による情報操作や
    報道管制のあることを無視して、
    国の文化や社会・道徳の保護を論じても意味がなし。
    文化をになうモノの かほがみえない。

大日本帝國の満蒙開拓以来、ひがしアジアに日本語を普及させる
言語政策を考慮せず、
    梅棹忠夫の「日本語 Roma 字表記」について一顧だにしない。

○ダイレクト・メソツドについての意図的な曲解、排斥。
    それでも、確信がもてないので、内外の思想家評論家の
    論述を引用するだけで、ダイレクト・メソツドの基礎理論に
ついて ふれない。実は、ふれられない。

○" The translator is a traitor "
と云ふ「慣用句」も御存知ないやうでございます。
英国の大学院で Master 過程を修了なさつてらつしやるのに、
まこと、残念じや。

たとへば、「文明」「文化」とかの翻訳語
もとの単語の意味を、施センセ、かんがへたこともなし。
civilization 」を「文明」と訳しても、
「文」と「明」の文字づらからは、civilization の意味は
みえてこない。わかんない。
    おなじく、「文」と「化」の字づらからは、cultureの意味は
つたはつてこぬ。
   漢字語による 外国語の翻訳にまつはる、かういふ  根本的の
矛盾構造を無視しておきながら、
   ワケしりがほで、論をすすめてゆく、その オツチヨコチヨイぶり。
はたから みてをつて いささか ゲンナリいたすシマツ。
   カンベンして くださいよ。

○日本の「英語化」政策は、おそきに失した感のある  
(お得意の)後テじまひ。
日本民族(縄文系と弥生系)の国民性や行動規範を  
よく体現してゐるところであります。
    戦後、マレーシアは、マレー語と英語を公用語としてをつたのを、
1970年以降  マレー語一本にもどしたが、結局  その不利をさとつて、
2004年から  小学校で数学理科を英語でおしえることにして、
英語重視の政策に方向転換してゐる。
この事実をよくよく  かんがへてみんしやい。
   欧米の文献をマレー語に翻訳できてゐなかつた事情を、
「それみたことか!」と、日本語擁護信者は 自慢気にのたまふ。
明治以来の、翻訳移入の実績を、自慢したいのでせう。
" The translator is a traitor "といふ一句を おわすれか!

   マレーシアのことは、しりませんでしたか?

○複数言語国家での、
国民の連帯意識の齟齬を問題にするクダリ(p.110)では、
    ベルギーを例にあげて、国民の連帯意識をたかめることの困難性を
強調なさつてをられます。

    そんなことをおつしやると、単一言語国家(といはれる)日本が、
    綺麗に連帯意識をもつて、一枚岩のごとく、
一糸乱れぬ連携行動をとつてゐるやうに  いはれるべきでせうに、
政党のカズ、新聞社のカズ、出版社のカズ、宗教団体のカズに
おもひ いたりませぬか?
連帯意識などといふ「ありもしないモノ」をもちだして、
国民を統制しやうとしても、事態は うごきもせぬ。

結局、民族語の多様性が障害なのではなくて、
市民個々人の思想価値観が問題なのである、あたり前田のクラツカー!
 「ベルギーでは、結局、
言語がことなる国民同士の連帯意識を たかめることは不可能にちかく、
現在は南部と北部の対立が先鋭化し、
選挙のたびに国政が停滞する(政権が発足できない)状況が つづいゐる。」
と、のべてをられますが、それこそ国民の民意でありませう。
世界中どこの国にもある 事象である。

大体が、近代国家といふククリは、
複数民族を 国境にかこまれた領土内に おしこんで でつちあげられる
概念でしかない。
そんなもの、世界的にながめれば 500年の歴史も もたぬ。
エゲレス、フランチ を胴元とする 帝国主義ゲームの オシクラマンジユウ。

○以上のやうに かんがみれば、そこから ほんのり みえてまいる、
施センセの  オハナシでは
方言に対する stance が  いかがわしい。
   「現地語」といひ「国語」といひながら、
「『日本社会の良さ』日本語のうつくしさ」などといふ
世迷いごとを力説なさるあたり、
   実のところ、中央集権国家の官僚統制をおしすすめるための、
独裁体制を擁護する意図が、コロモのしたの鎧よろしく、
あぶなつかしくも、みえかくれする言説でありました。

○「母国語をすてることは、自由や平等、
そして健全な民主主義が存在する社会を あきらめることなのです。」
と ふいてをられますが、
いままで、この わがくにに、健全な民主主義など存在したタメシも
あるまいに。 なにを、ねぼけたことを ほざいて ゐらつしやいますか?
御自身の学歴が、なきますぜ。
もつといへば、
「民主主義」といふものは、全体主義国家にとつては  
もつとも危険なイデオロギーで、
その本質は、個人個人がバラバラで、究極「隣人は敵」とみなすのが 
相互の自由と利益を保障する  健全なハドメなのであります。

政治学の専門家を相手に、こんな基本的なことを のべねばならぬ
なさけない事態は、ゴメンかうむる。

◆  このやうに、
施センセの言説は、万にひとつの 具体性もなく、
ただ単なる 観念のからまはり。
一冊の本が、これ、空想小説のデタラメ。

大枚はたいた  代金を かへしてくりよう!
と わめいても、こと すでに おそし。
これも、拙者の不徳といたすところ。
タイトルにだまされて 購入したモノが アホである。
尻尾まいて、ひきさがるしか  しかたあるまい。
すみませなんだ、ごめんちやい。