あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

石川九楊さんのトンデモ本がNHK放送出版協会からでてをります


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石川九楊・著『二重言語国家・日本』
(1999年5月.NHKブツクス[859])

◆この本のどこが トンデモないかと いひますと、
ほとんど全部、といふか、
議論考察の大前提が まつたくデタラメなので、
240ページにわたつて 喃々と展開なさつてゐる論考が、
からぶり うはすべりのオンパレードなので あります。

第一章 「日本語は特異か」の13ページ。
「 ……日本の言語学者が、言語と文字の問題についての考察を誤っているから……」
をフリダシに、
「『二重言語の生理』……日本語はその思想を含めた本質から言えば、
中国語圏に属する、中国語の植民地語であり、
もともと中国語に属する漢語と、和語との二重言語である。」(107p.)
をへて、
第四 章
「日本語が、中国語・和語・西欧語という三重言語の特性を生かして、高い垂直軸と遠くまで延びる水平軸をもつダイナミズムを構築することができれば……(p.232)」
まで、支離滅裂な言説を展開なさつてをられます。

出版されてから  15年以上もたちますが、
この御本を難じた論考は  きはめてすくない。
fc2のサイト「ことば逍遥記」で、ふれられて をるくらい。
ほかにもあるのでせうが、検索のヒマもありません。

○石川センセが、「文字」と おつしやるとき、
表音文字の、アルフアベツトを代表とする文字一般と、
表語文字としての漢字を區別せず、
あたかも、漢字が文字一般の 代表典型のやうに

のべて  をられます。


あたりまへのことですが、
地球上のすべての言語は、アルフアベツト、
厳密にいへば、万国音標文字で記録・表記できます。
これができない民族語など、ひとつもありません。
中国語や「漢字仮名まじり文」で表記する日本語は、
漢字の障碍をかかへこんで、

異様な進化をとげた 奇種でありました。
漢字を「表意文字」なんぞと  シヤレたつもりで  

世間にはびこつては、恥のシタぬり  ですぜ。

◆だいたいやねえ、
古代中国といはず、現代中国でも、
文盲は存在するのでしてな、
石川センセみたいな、教養たかい能書家は、
かぞへるしか をりもさん。
◇センセ!すると、ナンですか、
「(表意文字をよめない)文盲のモノは、日常  
まつたく無意味なコトバをしゃべつてをる」
と、でも おつしやるん ですかい?

◆漢字に淫しすぎた職業がら(漢字書家)、
自然言語としてのコトバの本質、
なかんづく、文字(言語表記)についての

単純な構造を カンチガヒなさつてをられますな。
それで、
毛筆にかぎらず、ボールペン鉛筆などの筆記具による肉筆が、
コトバの イノチ とやらを にじみださせる道具となさる。
◇いふにコトかき、デジタル系の 文字入力は、
「日本語によつてささへられた日本社会を 破壊するものだ」と
おつしやる。
よまよひごとも  ここに きはまれり。

◆たとへば、漢字を「表意文字」といふ、トリチガヘ。
言語學では、漢字は、
古代エジプトヒエログリフとおなじく、
表語文字」であつて、表意文字といふのは
俗流のよびかた、であります。
ただしくは「表語文字」。(ここんとこ、試験にでるよ!)
なので、石川センセ、
ひとつひとつの文字が、意味をあらはしてゐると、
信じこんで をられる、ドシロウトぶり。
「新書」レベルで よござんすから、
「言語論」「意味論」の書物を 一冊よんで御覧なされませ。

ま、ダメかもしれぬ。
引用する書籍の記述を、自分の妄想に都合のよきやうに
解釈・批判なさる  傾向が みうけられますゆゑ、
徒労におはるのが オチでありませう。
(「御書」ソシユールのクダリ、p.17~18.)


◇コトバの發生と文字の誕生を、

同時期だとおもひなしてゐるフシがある。
   倉頡の神話傳説を まにうけて をられるか?
   いはゆる「自然言語」は、中國語をふくめて、
   すべて、音声(言語)が起源であつて、
   文字は、自然言語が発生したあとに  あみだされたモノであります。

○「口承文学」とか、「無筆文盲」といふコトバ(名詞)をご存知ない。
あくまで、漢字書字が コトバの基本だと 妄信する立場に をられます。

○「文字はコトバの死骸」とのソクラテスの名言をごぞんじない。
   わたしに いはせれば、
   「漢字かな混じり」の日本語表記は  さしずめ、
   「厚化粧をほどこしたミイラ」とでもいふべきシロモノ。
    いのちのカケラもなき 悪臭芬々の汚物でしかありませぬ。

    戯曲、詩歌はもとより、小説、評論においても、
現行の日本語「漢字かな混じり」文学は、コエをうしなつた、
言語芸術の堕落的極北でしかない。
   今かうして、「漢字かな混じり」の文章をかく 自分のおかれた諸条件が、
くちおしく  はらだたしく 無念でなりませぬ。