あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

日本語の惨劇、日本の英語教育によせて。JE001

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これから、日本語と日本文化について、
考察を くはへてゆくのですが、
わたしが、これまで ながらく かんがへてきたことの
とつかかりとなつた 書物を
うへに掲示しました。
この blogを up するまでの一年以上もの あひだ、
書物をさぐり、
net のあちこちを ググつてまいりました。
さまざまな分野方面に めをむけ、
かんがへを めぐらすべき 領域にモレがなからうと、
おもへるトコロまで、やうやつと こぎつけました。
いよいよ はじめることができます。

これまで 『英会話の正体』なる トンデモ本に 考察を くわへながら、ワタクシの かんがへるところを のべてまいりました。
つぎに、やりダマにあげますのは、
以下の 御本であります。

ちくま文庫水村美苗・著。
増補『日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で』
といふ、それなりの問題意識を
吐露なすつてをられる
第八囘小林秀雄賞受賞にかがやく
大變な意欲作でありますが、
つい三年ちかくまへ、
呉智英センセーが、
このゴホンの文中での いひまはし
「すべからく」の誤用について、
言及なさる機會がありました。
SAPIO/8月號2014年)
文学者小説家・水村先生としては、とんだ失態ではあります。

一章から七章まで、検討をくはえてまいりますが、
上記の件をふくめ、いろいろ たのしみなことであります。

で、本題にはいるまへに、

日本語と、これをとりまく
日本文化全般を 考察するのですから、
日本語についての
わたしの基本的 stance かんがへ を
うしのべて おかねば なりますまい。

コトバは、社会内の意思伝達に
つかはれる「音声記号」でありますが、
人類の歴史の 原初においては、
さけびごえやうめきごえであつたらう。
モノを指示する音韻(こゑのだしかた、発聲)の形が
なかまうちの ならはしとなつて、
コトバ(単語)が流通しだしたのでありませう。
コトバは、最初は、音声のみの記号体系で、
文字が はるか後世に發明されたのは いふまでもありません。
はじめは、象形文字として。
ほどなくして、表音文字として 改良される。
シユメールのクサビ形文字にしても、
セム族のアレフベツ(ヘブライ文字)にしても、
現代の世界共有のラテン文字(アルフアベツト)も
コトバの聲をうつしとるための記號大系でありました。

人類のつかふコトバは、すべて、發音記號としての
表音文字で 表示されます。
しかるに、中國傳來の漢字とその傍流である
日本語のカナ文字は、子音母音の表示ができない、
変則的な文字(發音記號)大系であり、
コトバの表記法としては 埒外の異端であります。

ですので、「漢字かな混じり」の日本語表記文は、
コトバにしたときに、音聲伝達に不備が生じてゐます。
さらに さかのぼつて、
中国字「漢字」の成立條件とその來歴たるや、
おぞましき変態性にこりかたまつております。
漢字の呪術性・宗教性・権威主義・事大主義が、
日本語表記にあたへた 病理症状について
これを吟味する学者先生は きはめて すくない。
絶無にちかい。
「日本語の美しさ」とか 礼賛の陳述ばかり。
寡聞にして、
梅棹忠男先生以外には、日本語表記の絶望的状況について、
真面目に論述なさつた碩学を しりませぬ。
ここで、人類が 日常に發する自然言語について、
あたりまへのこととして ふまへておくべきは、

「コトバは音聲(こゑ)である」ことであります。

水村美苗センセ が陳述なさつておられるのは、
おほむね、かきコトバについて のべてをられるやうに
おみうけいたしますが、
御当人は、コトバ全般について 論じてゐる 御つもりの
やうです。

水村美苗センセーの
増補『日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で』
をつつつきながら、
日本語の うらめしき宿命の 悲喜劇と
英語教育に失敗しつづける 文部行政について
これから のべてまいります。
わたしの 今生の最後の ヨタばなしとして、
しばらく おつきあひ ねがえれば
幸甚に 存じます。

以下、次回の blogまで。