あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

平成の御代、最後の年度が始まつてをります。アベちやんの 來年は まうないのが確實です。そして、日本経済は 断末魔。アベノミクスは、ないてばかりで とびませんでしたね。

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貨幣経済(學)は宗教であること□

もともと、倫理哲学としてはじまつた経済學も、重商主義が主流となるにつれ、中央銀行の機能を重視するやうになる。
アダム・スミスが うまれた1723年は、イングランド銀行が創立されてから 30年もたつてをりませんでした。
中央銀行が國家の経済政策を補強するものとして、政府を コントロールするやうになるのは、英仏戦のワーテルロー以降でありました。

昨今、水野和夫氏が 学術界ではなく、
実業界出版界で注目をあつめてゐるのは、
この中央銀行の歴史的ヤクワリに 引導をわたす 確固たる 宣言のごとく よまれてゐるからであります。

重商主義の英蘭が 無限のフロンテイアをもとめて、海洋にのりだしたとき、
「成長」といふ神話が 近代システムの信仰規範になつてをりました。

『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』で、水野和夫氏は かういひます。p.102

---「成長は近代の産物です。つまり、近代システムが盤石であること、すなわち空間が無限であることが成長の条件なのです。フロンテイアの消滅した現代では、もはや空間は有限です。資本主義と国民国家が両立できた1970年代半ばまでの「黄金時代」を新しい時代のモデルとすることはできません。(略)
深刻なのは、この「黄金時代」が複数の意味で最後の輝きの時代だったということです。ノアの方舟から始まったと言われる、西欧文明の本質である「蒐集」の歴史、1215年に端を発する資本主義の歴史、「長い16世紀」後半のウエストファリア条約(1648)から始まる主権国家システム、18世紀末のフランス革命が生み出した国民国家ーー。」
と要約され、
現在の、ゼロ金利空間に逢着してゐるワケであります。

ノアの方舟以來の「蒐集」といふ概念をkey word に、西方世界の歴史を ながめるとき、
その経済活動をささへる基準に「貨幣」
がありました。
くだつて、紙幣が発行される近代にいたり、
「蒐集」に 市井の余剰金をあつめ、投資できたのも貨幣制度にもとづく社債発行制度があつたからであります。
戦争国債を発行するのも、近代的な金融システムがあるからでした。

水野氏がいふ「蒐集」を近代システムの最良の条件で運営するのに、
ロンドン証券市場ではたらいてゐた David Ricardo は、自由貿易を擁護するために『比較優位理論』をとなへ、論証します。かれもまた、ユダヤ教からキリスト教に改宗したマラノでした。
Rothschild が、ワーテルローの戦況をいちはやくしつた風な そぶりで 英國(戦時)國債を なげうりしたのを、ほかのdealers がみて、すべて狼狽うりしたところを みはからつて、
クズ値同然の権利証を、チリトリとハウキで はいてまはつた episode は、どなたも御存知でありませう。
それを、Ricardo は みてゐたのでした。

しかし、そんな詐欺まがひ の策を 弄さずとも、
生産物に投資をして、利子をかせぐ といふ idea は、そも どこからうまれてきたのか。

ユダヤ民族の「不労所得と資産形成」の思想。
➖➖➖カインとアベルのしめすもの。

農耕は、土地を基盤とした自然へのはたらきかけによる
消費物(穀物野菜果物)を生産するための労働であります。
天変地異や天候不順によつて、
作ゆき収穫に変動があるし、
飢饉もなしとしない。
一方、
牧畜は、家畜の繁殖を みまもりながら、
時間の経過をまつのみ。
農耕のやうな過重な労働がない。
旧約聖書にみられるやうに、
ユダヤのカミ ヤハウエは、
カインの農耕による産物をきらひ、
アベルによるヒツジの燔祭をよろこんだ。
穀物意外の農産物は 保存できなかつた時代、
家畜を「とみ(財産)」とする 思想(崇拝)のはじまりが
カミの恩寵によつて 象徴される。
一定の周期・時間経過によつて、家畜は繁殖する。
ふえた分(利子)を多少 まびいても、
最低限オスメスの一対が をれば、
資産をくひつぶすことは ないのでした。
この経済観念から、
ユダヤの民は、みづからの神話に
禁忌 taboo を くみこんだのです。
それは、
「こヤギの肉を 母親のチチで にてはならない」
といふものである。
チチで こヤギの肉を にる、とは
利子(こヤギ)を ふやすもの(チチ)で
利子を くひつぶしては、
モトもコも なくなる、といふ意味であります。

この かんがへかた は、
日本人の食物禁忌とは 根本的にちがふ。
日本人のやうに 清浄不浄を
皮相的感覚的にとらへるのではなく、
ユダヤの民の食物禁忌は
牧畜の繁殖にかかはる
実利的な経済観念から きてゐます。
日本人が、もし、稲作農耕を主たる
食糧確保の手段としつつ、
一方で、牧畜や養鶏をも 重視してをれば、
「おやこドンブリ」などといふ 料理は
ありへないのだ。
おやの肉(トリ肉) を そのコ(タマゴ)と
ともに にこんでしまふ、といふ
その場かぎりの 飽食感覚では、
一族郎等の生存は おぼつかない。
その経済観念が、不埒であります。

平成の御代も おはらんとする今年、
手仕舞ひに かかりつつある 民族としては、
面白くもなき オフザケ アツキーの アベまりあ、
カミのこ救世主を うむこともできず、
このまま 日本人は 流浪の民となりぬべし。
めでたし めでたし!
(この項つづく)