あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

いまさらながら、いふまでもないことを いふておく。

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「いまさら すまんが、前提論のイハズモガナ」

ここで、いまごろになつて
人間の 言語活動の 大前提について たしかめて おく。

およそ、言論といひ、報道といひ、
思想信条を のべつたへたり、事件發言を報じたりする ことは、
コトバをつかはずには できぬ ことではあるが、
この コトバの 機能効力については
ひととほりの検証が 必要である。

われわれのコトバは、共通のモノでありながら、
個別の いろあひを もつてゐる。
(また、日本語と英語の それぞれ ことなつた 構造と
意味世界が、翻訳といふ 次元で
おほいなる 齟齬を ひきおこしてゐる。)

ひとまず、一般論ながら 個別具体的な議論を こころみる。

ヒトは その うまれや、うけた教育の level や 習熟度、
氣質や生活環境によつて、
知能教養において、
おのれと ほかのモノども とのあひだに
のりこへられない障壁を もつ。
この隔絶は 一國のなかにあつては、
人口数分の 階級として、記録できるにちがひない。
ひとりひとりの人間にあつて、
性別、年齢、生活環境、学歴(成績・習熟度・記憶力・応用能力)、
嗜好、体力、病歴、思想信条宗教、趣味などにおいて、
どれだけの 強度濃度を もちあはせて ゐるか?
その ちがひ、ズレぐはいによつて、
それぞれの個性 といふものが きまる。

所詮、ヒトひとりの total な人間性などといふものは、
永遠のナゾにすぎず、本人をふくめて、
「これ」と確定できることは なにもない。

だとすれば、
いまをときめく ネツトの ウヨク「もどき」が
アベ政権を はやしたて、野党を 揶揄してをるのも、
詮なき ザレごと といはざるをえぬ。

たとへば、
シンゾなる 戰後うまれの團塊オヤジが をるとせんか。
こやつのおやは、特攻くずれの Proletariat で、
オフクロは、創価学會の婦人部活動家だ。
自身は、驛辨私立大學を卒業。
しかし、勉學にいそしむ こともなく、
講中は うはのそら。かよつてゐる成蹊大學の
名前すら 漢字でチヤンと かけない。
それはともかく、
GHQ占領政策によつて もたらされた 反戦平和主義の
戦後教育で、シンゾ君は、全共闘活動のハシクレとして、
ビラくばりにいそしむ。
おやのハナシは、戦時中の軍部に對する怨嗟のグチばかり。
陸軍参謀の無能ぶりと、天皇の無責任。
特攻の無謀と、バシー海峡派兵の残酷性。
かういふ言語環境にあつては、
いまどきの ネトウヨは、
ちやらいフーテン、ゴロツキに おもへてなりませぬ。
かくして、シンゾ君は、
地位協定による 米軍支配のつづく日本にあつて
うしなはれた 30年を 日々すごしてゐるのでありました。
一方、
オフクロの法華講組織は、戦時中の弾忘れて、
戦後の平和と民主主義を 存分に享受してをるはずだが、
戦前の 學會の「軍國主義萬歳」活動は おしへられてをらぬ。
といふことで、
コトバは重寶なもの。クチサキだけで 商売ができる
唯一の モノが 宗教である僥倖。
ユダヤ、キリスト、イスラムと 諸國に蔓延する 一神教とて
コトバだけの ヨマヨヒごと。
神道や葬式佛教とて、おなじアナのムジナ。
人間とは、かくも おろかで 傲慢なるか? と
つくづく かんがへ こんでしまふ、
けふこのごろではありました。

つまり、
コトバをつかつて 議論をすすめるには、
このコトバの 抽象性について、
重々しつかり 承知しておかねば ならないのである。
政治経済文化教育などなど、
社会全般にかかはることどもを論じる場合
コトバの抽象性・非現実性を
充分承知してをかねば なりません。
ことに、経済政策や 産業活動について論じる場合は、
その抽象性について、しつかりと ふまへてをかねばなりませぬ。
貨幣経済の根幹をなす「信用の創造」などといふ
宗教的前提で 社会事象を説明してをる世界は(この5世紀間)
充分にくるつてをります。
この 壮大なる 詐欺世界を ここまで ひきずることが できたのも、
コトバの抽象性の オカゲ でした。