あなたのコトバが あなたをだます/日本語道場2020

「漢字假名まじり文」の日本語をkeywordに私たちの社会の深層をさぐります。

日本語アリ地獄は假名文字から💩『日本語が亡びるとき』の難点

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「漢字假名まじり」表記が、日本文化のShukuA(宿痾)として

MannEn蔓延定着していることに 氣づくモノはすくない。

いまだに、日本語のすばらしさ、日本文化の融通無碍の美しさを

ムリクリ(苦心惨憺して)もてはやす有識者が BatKo(跋扈)してますな。

もちろん、

「komorebi」なる wago(和語)はうつくしい。

しかし「木漏れ日」といふ 漢字かな交じり表記は、

決して うつくしくない。

 

◆なかなか本題に入れませんが、

そもそも、『日本語が亡びるとき』を論難しやうと

おもひたつたのは、美苗アネゴの御本を読みつつ、

最後の章(第7章)の半ば(p.368)にさしかかつたところ、

とんでもない陳述イヒグサに

でくはして  しまつたからであります。

(以下引用)

「...ISETAN やら Keio やら SEIBU。だが、西洋語のカタカナ表記の氾濫は、ああ、もしもこの日本語が西洋語であったら・・・という、西洋語への変身願望の表れでしかない。そもそも政府からして、翻訳語を考え出すこともせず、西洋語のカタカナ表記を公文書に使って平気である。(改行)恥ずべきコンプライアンス⦅=屈辱⦆(改行)しかも、このような日本人が日本語にもつ自信のなさを、いやましに深めたのが、「西洋の衝撃」を受けたあと日本にじわじわと浸透していった、誤った言語観で、一言で言えば、〈書き言葉〉とは、〈話し言葉〉の音を書き表したものだという言語観である。」

この前代未聞の言説、あらゆる言語学の基本概念をくつがへす怪説を

シレつと書き記す病的観念。

「〈書き言葉〉とは、〈話し言葉〉の音を書き表したものだという誤つた言語観」

この驚天動地の世迷ひ言。

わたくしは こんなにひどい「思慮分別」の陳述に遭遇したのは

それまで  なかつたので、むしろ

このやうな言説がわきおこるには、

なにか特殊な根拠背景があるのだらうと、

考察推測しはじめました。

それが、日本語を表記する「漢字かな交じり表記」だつた

のであります。

水村女史は、和語ヤマトコトバの「漢字かな交じり表記」に

なんの疑問もおもひいたらない。

先のイヒグサを踏襲するならば、

日本人が日本語にもつ自信のなさは、

古事記日本書紀にみられるやうに)

「和語の漢字語表記の氾濫は、ああ、もしもこの和語が漢字であつたなら…」

といふ、古代日本の漢字complex が淵源にある。

この漢字complexを払拭できるのは、

唯一中立的な Roma字だけである。

仮名文字は駄目である。

仮名の本意は「漢字からの仮りモノ」であり、

本家の漢字を和語で「マナ(真名)」といつた。

このヘリクダリ様は秀逸でありホンモノである。

当時、ヤマトコトバにおいては、「文字」といふ概念用語がなかつたので、

文字のことを「ナ」といつた。

仮名文字からの Roma字化を表記法にしてゐる

現行の Roma字会の表記法も、勿論ダメである。

仮名文字表記を いくら Roma 字に変換したところで、

無駄である。

この項つづく、